長福寺は永享2(1430)年、木曽義仲の13代子孫・木曽豊方公が木曽家菩提供養のために一宇を創建して、寺領山林などを寄付し、鎌倉浄智寺開山の仏眼禅師の弟子、竺隠和尚を請じて開山としました。
竺隠和尚亡き後、数十年は住職の無い寺として荒廃していましたが、大永年間(1521〜1527)になり、木曽家16代の木曽義元公が上州・沼田野の村より当寺へ移り住み、家屋を建築して木曽谷中を統治しました。
義元は叔父である妙心寺住持・信叔(独秀乾才の法弟)を請じて、中興開山として、これより臨済宗妙心寺派となりました。
義元もまた、仏殿の再興や当町沼田野の領地などを寄贈し、中興開基となりました。
義元逝去の節、負傷した戦地より沼田野の領地まで運んで埋葬したため、その地を御墓島(みはかじま)と呼びます。
木曽家19代・木曽義昌公は永禄年間(1558〜1569)に、木曽家の霊屋を再建し寺領及び朱印を興すものの、文禄3(1594)年4月23日、火災に遭い堂宇および朱印状をすべて消失しました。
文禄4(1595)年、山村良利公は本堂及び庫裡を再建しましたが、嘉永3(1850)年2月19日には再び火災に遭い、堂宇を消失します。幸いにも、寛文7(1667)年に建立された鐘楼門は、その難を逃れました。
安政年間(1854〜1859)に、代官山村家および総檀家によって本堂・庫裡の再興がはかられますが、この堂宇も昭和2(1927)年5月12日の福島大火により全焼しました。
長福寺の境内は、たび重なる火災と、そこから復興の繰り返しにより、現在に至っています。
|